松龍山興隆寺

興隆寺では江戸時代1829年(文政12年)、大干拓工事により呉崎新田が完成したときを創建としています。

寺院情報

寺名(ふりがな) 松龍山 興隆寺(しょうりゅうざん こうりゅうじ)
住職(ふりがな) 護城 孝道(もりき こうどう)
住所 〒879-0608 大分県豊後高田市大字呉崎1643番地
アクセス情報 IC宇佐を下車20分。国道213号線沿い、バス停「呉崎」下車2分。
電話番号 0978-22-3280(FAX 0978-22-2871)
メールアドレス Koryuji1643@gmail.com
ホームページ http://koryuujijuushoku.sakura.ne.jp/
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納骨堂 有(空き無)
墓地
合同墓
駐車場 10台分
バリアフリー対応 未対応
主な行事・活動 3月 春彼岸・永代経法要
5月 降誕会・皆作法要
9月 仏教婦人会法要
9月 秋彼岸法要(敬老法要)
10月 納骨堂総供養法要
11月  御正忌報恩講法要(御宝物様御開帳法要)
12月31日 読経・除夜の鐘
毎年夏8月 興隆寺子ども会
寺院紹介 興隆寺ではその創建を江戸時代1829年(文政12年)としています。今から約200年前に、大干拓工事により呉崎新田が完成したときを創建としているわけです。開村の父である日田代官・塩谷大四朗(しおのやだいしろう)公は京都の本願寺へ申請して、ここに浄土真宗の聞法道場として堂宇を創建したのです

 海を干拓して新しく出来た土地に、近隣、特に対岸の広島や山口方面より、大勢の人々が新天地を求めて移り住んで来ましたが、その多くがお念仏をよろこぶ家々の若い衆であったのです。みんな肉親から「どんな苦しいことがあってもナンマンダブツでがんばれよ」との励ましをもらってやって来たのです。新しい村では、苦しい生活の中でも、みんな「ナンブンダブツ」とお念仏を称えながらがんばって、だんだん発展して行き、呉崎門徒が形成されていったのです。

 しかしこのお寺は最初から興隆寺と呼ばれたわけではありませんでした。当時は幕府の「宗門改め」の政策により、新しいお寺を作ることや、門徒が新しいお寺へ移ることが固く禁じられていました。それで最初のうちは、日田の照蓮寺や近隣の諸寺にお世話になっていましたが、いろいろ難しいことが多かったようです。1859年(安政6年)11月10日に、当時の四日市別院本堂再建工事への呉崎門徒の特別のご奉仕の信仰的情熱を認めて、やっと「本願寺四日市別院呉崎新田出張所」として本願寺が破格の一寺建立を認めて正式に発足したのでした。

 その後、寺号下付について門徒の熱心な運動が続き、明治政府発足後1870年(明治3年)12月には門徒代表者が本願寺へ行って15日間にわたり泊り込み嘆願を行った。その結果、ちょうどキリシタン禁制に伴う諸制約が解除になった機運に乗じて、1871年(明治4年)1月24日、本願寺より正式に「興隆寺」という寺号が下付されたのであります。

現在の本堂は本願寺より命を受けて入寺した初代住職護城慧眼(もりきえげん)が発願し、この人望厚い住職と門徒衆一丸となって募財し、1893年(明治26年)1月3日に完成しました。墓財の額が大きいと不満を言う人もあったそうですが、本堂完成の年の10月14日に大暴風雨でこのあたりに大洪水が出て、大勢の人々が伝馬船(てんません)を漕いで新築なった興隆寺本堂に避難して助かったことで、不満の声はぴたっと止んだという逸話が残っております。

 その後、地元の人々の懸命の努力により、呉崎地区は、「呉崎音頭」に出ておりますように、白ネギ、落花生をはじめ、いろいろな名産品の産地となっていますが、これひとえに先人がご苦労の中にお称(とな)えになった「ナンマンダブツ」が土地の中に染みわたっているおかげさまであります。

 「ハアー♪ 蝶(ちょう)に惹(ひ)かれてよ♪ 菜の花小道 ヨイトヨイヨイ♪ 参る彼岸の 参る彼岸の 興隆寺♪ ホンニヤレコノ  興隆寺♪」(呉崎音頭(昭和25年制定)四番)

 皆様、報恩感謝の心「ナンマンダブツ」でがんばりましょう。
地図